院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


「竹光侍」 松本大洋(永福一成原作)

 
 日本のマンガ・Mangaは、海外ですこぶる評価が高い。日本文化で誇れるものの双璧として、私はカラオケとマンガを挙げたい。いろいろご意見はあるだろうが、独断と偏見で言わせて頂く。カラオケはそのオリジナルからして日本である。メイド・イン・ジャパンだ。人前で歌いたい。自分ののどを自慢したい。古来より礼節を重んじ、謙譲・謙遜を美徳とする民族と思われていたシャイな日本人のどこからこの偉大な発明がなされ、かくも隆盛を極める一大文化にまで成長したのだろうか?二十世紀の七不思議のひとつである。(あとの六つは自分で考えて下さい)かくいうわたしも、カラオケ大好き人間だ。レパートリーは狭いが、音域は広い。独身時代は高音の魅力を武器に夜の町を、場末の盛り場を席巻したものだ。(カラオケボックスはまだなかった)この世に人類が存続する限り、カラオケという偉大な文化は廃れることはないだろう。だって、歌ってると気持ちいいだもん。
 マンガと聞くと、北斎漫画をまず思い浮かべる。これは葛飾北斎のスケッチ集の様なもので、人物や動植物、果ては妖怪までが巧みな筆捌きで描かれている。その数およそ四千点。これは国内のみ成らず十九世紀初頭のヨーロッパ、特に印象派の画家に影響を与えたとされている。日本の漫画は、歴史的にも国際的であったのである。さらに歴史をたどれば、平安末期の鳥獣戯画まで遡る。擬人化したウサギや蛙が面白可笑しく描かれているのを、皆様も一度は目にしているだろう。この戯画には、現代の漫画にも通じる効果線(動きを表す線)が用いられており、漫画の起源とも言われている。
現代漫画は明治に始まる。西洋のカリカチュアと同様に風刺漫画を先駆けとし、欧米とくにアメリカンコミックの模倣時代を経て、「のらくろ」、「冒険ダン吉」など日本独自の漫画が市民権を得るようになる。二度の世界大戦で、喧伝に使用されたり、敗戦後はCHQの統治下、回収され廃棄処分を受けるなど、日本漫画は受難の時代を経験する。しかし、戦後復興の国民のエネルギーに後押しされるように、新聞の四コマ漫画を皮切りに、ストーリー漫画が産声を上げ、漫画の商業誌が隆盛を極めるようになる。そして、巨匠手塚治虫がスタイルを確立すると、日本の漫画は、単に子ども向けの娯楽の範疇を突き抜けて、大衆文芸としての一角を占めるにまで成長する。漫画が本来の紙媒体のフィールドで円熟期あるいは爛熟期を謳歌する今日、一方ではアニメーションという新しい技術との融合により、テレビや映画に進出し、ジャパニメーションという造語まで生まれた。世界に冠たる漫画王国日本をもっと自慢してもいいのではと個人的には考える。とは言っても、大人が漫画を読むことやアニメを見ることに抵抗を持つ人が多いのもまた事実である。そんな方々に読んで頂きたいのが、今回紹介する「竹光侍」である。あなたがもし、藤沢周平の愛読者であれば、いまその足で書店へ直行し、全8巻を大人買いして読む事を強くお勧めする。
 「竹光侍」は、北斎漫画と藤沢周平の文学を現代につなぐと同時に、未来への新機軸であると私は考える。日本漫画のひとつの完成形を示す作品であると思う。時は江戸時代中期。素性定かではない若い武士、主人公瀬能宗一郎が粗末な長屋に移り住む所から始まる。顔が怖い。最初は「きょえ~」と叫んだほどである。ピカソさながらの人物描写が、のちのちなんとも言えない滋味を醸し出すのだ。鷹揚で飄々、雅量ある人物は、時として凄まじい剣気を放ち、修羅のごとき太刀さばきを見せる。これは主人公の数奇な出自とトラウマとなる惨劇に深く関わっている。宗一郎は自らの心に巣くう鬼と対峙し決別を試みるが妖刀國房がそれを許さない。その妖刀はすでに宗一郎の一部であったのだ。國房を質に入れ、竹光を差す。「竹光侍」にとって武士の矜恃など、無用のお題目にすぎない。
 作品には宗一郎をとりまく江戸庶民の人情と暮らしぶりが細やかに描かれる。藤沢の市井文学を彷彿とさせる所以。女性の描写も藤沢文学に通底する。宗一郎はひょんな事から矢場の女将お勝と懇意になる。色町の世界に身を沈めてはいるが、お勝は心根のやさしい、芯の強い女である。二人は同郷のよしみを越えて、生きていることの寂しさを深く共有する。白眉の場面は、死を覚悟した決闘の前日、宗一郎がお勝に逢いに行くところ。お勝が矢場に戻ると宗一郎が粛然と端座して待っている。「二階にあがるんだろう?」お勝が誘う。「いいや、今日はお勝の顔だけ見られりゃいいんな。」お勝は小首をかしげて振り返る。宗一郎が続ける。「わたしは気の弱い人間でね。丑三つ時などに一人目を覚ますと 恐ろしく気がふさいでしまうようなことがある。天井の木目などじっとながめて、気が晴れるのを待つが、なかなかにうまくゆかない。」矢場の女達がくすくすと笑う。「奈落へと落ちる釣瓶のごとく、果てしなく悲しくなり そのうち起き上がる事すら儘ならなくなる。そのような時、いつもお勝に救われた。いつもお前に救われたに。」「何かあったのかね?」「何もないよ。惚けてみたんな。」どかどかと他の客が入ってくる。「お勝・・・行くよ・・・」、宗一郎が出て行く。お勝は見送らない。「これ切りなんだね、宋さん。」心の中で呟く。一刹那、視線を交わす二人。宗一郎は、つっと空を仰いで、ぱたと障子を閉める。お勝の目に涙が盛り上がる。何と心締めつけられるシーンなのだろうか。己を律するすべを知る男と女の今生の別れ。切なくて哀しくて、そして美しい。
この物語には、もうひとり重要な人物が登場する。宗一郎の命を狙う木久地真之介。邪気に満ちたこの人斬りは、宗一郎に自分と同じ匂いを嗅ぐ。血に飢えた狼の匂いだ。しかしこの二人には決定的な違いがあった。宗一郎は、故郷では暖かくも厳しき父の教えと深く優しい母の愛に包まれて育ち、江戸にあっては、お節介な長屋の人たちや手習いの先生として慕ってくれる子供達に支えられた。一方、木久地は誰よりも愛に飢え、だがしかし一片の愛情も知らぬまま鬼となる。唯一、作者のみがこの巨軀の無頼漢を、慈愛をもって描ききる。見事! 作画技量の素晴らしさも刮目を迫る。手に汗握る殺陣の描写、簡素な線描が心地よい江戸の町々、心情をつまびらかにする人物の素描、そのひとこまひとこまが、一幅の絵として鑑賞に堪えうるのだ。これは驚嘆に値する。決闘の決着がつき、時が流れ、大団円の最後のシーン。二度と会えないと思っていた宗一郎を見て、お勝は笑ったのだろうか、それとも泣いたのだろうか?



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